蓮如上人
蓮如上人のご生涯 ④  
 

 山科本願寺の建設
 山科の土地は、醍醐三宝院の別領で門主は足利将軍義政の子の義覚でした。上人が義覚門主と親しかったことや、長男の順如師が将軍家を訪問するなどで、いよいよ山科に念願の本願寺の建設が可能となりました。
 五年の歳月をかけて完成した山科本願寺は、さながら仏国のごとしと讃嘆されるほどの荘厳華麗な姿であったと言われています。
 応仁の乱の疲弊がまだ癒えない中で、門徒たちの惜しみない寄進によって完成した本願寺は、まさに民衆理想の僧伽(さんが)の誕生と言えるでしょうか。
 大谷本願寺の破却から十五年もの年月が流れていたのでした。
 親鸞聖人の教えをひたすら教化された上人への信望は厚く、他宗他派からの本願寺への帰参が相次ぎました。仏光寺の経豪、錦織寺の勝恵らも多数の末寺を引き連れて帰参したこともよく知られているとおりです。
 その後の山科は、本願寺を中心とする寺内町として大きな発展を遂げました。

 
 

 大坂坊舎の建設と晩年
 上人は七十五歳を迎えた延徳元年(1489)に、本願寺留守識を五男実如上人に譲られました。そして上人自らは山科本願寺の南殿に隠居されました。隠居の身となられてからも、上人の教化活動は以前と少しも変わることなく続けられました。出口御坊や富田御坊、堺や堅田などと、足しげく近畿各地を往来されています。蓮如上人晩年の八十二歳の時のことでした。摂津の国・生玉の庄(現在の大阪城の地)の地に大坂坊舎を建設されました。「大阪」の地名はこの時からはじまったものです。
 この地は、大阪湾に注ぐ淀川と大和川の合流地点に面した上町大地の北部にあり、瀬戸内海を眺望する水陸要衝の土地柄でした。
 上人には、真宗の教えがやがて山陽から四国九州へと拡大発展していく第二の拠点構想がこの大坂坊舎の地にあったのかも知れません。

 

 山科本願寺が建設後約五十年で消失したあとは、この石山御坊が石山本願寺となりました。石山本願寺を中心とする寺内町は、まもなく一大宗教都市として大いに繁栄し、以後の商都大阪として発展していく基礎となりました。
 のちにこの地は天下統一を狙う織田信長が着目する所となり、石山合戦へと発展したことはよく知られているとおりです。大阪城は石山本願寺の跡に建てられたものです。
 なお大坂坊舎の建設費用は、上人が書かれた名号の門徒たちへの下付金によって賄われたと伝えられています。大坂坊舎にあっても、上人は『御文』を続けられ、門徒への教化を休むことなく続けられました。

       
 

 明応七年(1498)春頃より、上人はお身体の不調が出はじめました。
 八十四歳の寄る年波を感じられたのでしょうか、一時はこの大坂での入寂を考えられたようですが、翌年の二月に急に変更して山科へ帰られました。
 上人は御影堂、阿弥陀堂に参られ、幾万と参集した門徒たちにも別れを告げられました。後事を実如上人らの子息や門弟たちに託され、明応八年(1499)三月二十五日、ついに浄土へ西帰されました。八十五年におよんだ蓮如上人の真宗再興に捧げられたご生涯は、このようにしてその幕を閉じたのでした。

 
       
 

 私たちは平成十年に五百回忌を迎えることになりました。
 上人は真宗を再興し、親鸞聖人の本願念仏の教えを伝えて私たちをお導き下さいました。私たちはそのご遺徳を偲び、いよいよ如来大悲の恩徳と宗祖親鸞聖人のご恩に報いるよう、本願念仏の行信の道を歩ませて頂きたいと念ずるばかりであります。 

 
蓮如上人の『御文』に学ぶ へ続く
 
 
しんしゅうおおたには えんまいざん でぐちごぼう こうぜんじ
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