蓮如上人略年譜及び光善寺略年表  
 
西暦   年号 蓮如上人・光善寺関係事項 相伝関係・一般事項
1415   応永二二 応永二十二年蓮如上人御誕生・幼名は布袋丸
1420   応永二七 生母大谷を去る
1429   永享元 蓮如真宗の再興の志を起こす
1431   永享三 蓮如、夏に得度
1434   永享六 蓮如、『文類聚鈔』を書写
1436   永享八 蓮如、『三帖和讃』を書写、金宝寺教俊に下付す
1438   永享十 蓮如、『浄土真要鈔』ほか各種聖教類を書写
1442   嘉吉二 長男順如誕生
1446   文安三 蓮如、『愚禿鈔』を書写
1447   文安四 父存如と共に東国に旅す
1449   宝徳元 父存如と共に北陸に下向す
1455   康正元 蓮如の室如了尼没
1457   長禄元 本願寺第八代法主を継承 六月十八日父存如没
1460   寛正元 蓮如、『正信偈大意』を著す
1461   寛正二 蓮如、『御文』第一号を著す
1465   寛正六 三月延暦寺衆徒大谷本願寺を破却 蓮如、親鸞影像を奉じて近江に移る
1466   文正元 蓮如、長男順如に寺務を譲る
1467   応仁元 二月親鸞影像を堅田本福寺へ移す 応仁の乱始まる
1468   応仁二 延暦寺衆徒、堅田を攻撃 北国東国の親鸞遺跡を訪ねる、吉野高野に旅
1469   文明元 親鸞影像を大津新殿に移す
1470   文明二 蓮如の室蓮祐尼没 道顕、堺道場(後の真宗時)を建設
1471   文明三 五月、蓮如吉崎(福井県)へ下向、七月に吉崎坊舎を建設す
1473   文明五 御文の製作盛ん、教化大いに進展『正信偈』『三帖和讃』を開版 加賀の守護富樫政親・本願寺門徒
1474   文明六 吉崎坊舎及び寺内町炎上す 連合軍が弟富樫幸千代・専修寺連
  蓮如、御文をもって異安心を批判す 合軍と戦って勝つ
1475   文明七 蓮如、五月に門徒への十ヶ条の掟の御文を書く 三月、加賀本願寺門徒、守護富樫
  八月二十一日、吉崎を退去し、若狭、摂津を経て出口へ向かう 政親と戦い敗走す
  ― 光善寺史始まる ― 六月 加賀一向一揆起こる
1475   文明七 八月、蓮如上人、吉崎を退去し程なく河内出口に到着、
  御厨石見入道光善の請いにより草庵を開く、光善寺の開基
1476   文明八 蓮如、堺に信証院、富田に教行寺を建設す
1477   文明九 蓮如、『御俗姓』の御文を書く この頃、応仁の乱ほぼ終わる
  ○蓮如、六男蓮淳(顕証寺)へ相伝 蓮如『教行信証大意』を書写
1478   文明十 正月、出口を離れて山科に移る 長男順如を光善寺初代住職として、
  山科本願寺建設にかかる 蓮如の室如勝尼没
1480   文明十二 三月山科本願寺御影堂上棟 十一月親鸞影像を大津より移し報恩講営む 朝廷より香箱下賜 将軍家日野富子
1483   文明十五 五月二十九日順如没、光淳(常楽寺光信の三男・蓮如の外孫)養子となり 山科本願寺に参詣す
  光善寺二世として入る。八月、山科本願寺の諸堂完成す
1488   長享二 加賀の一向一揆、守護富樫政親を破る。幕府の命により蓮如加賀一門を一時義絶
1489   延徳元 蓮如山科南殿に隠居す
1492   明応元 五月、淀川洪水、光善寺浸水す
1494   明応三 ○蓮如、光善寺二世光淳へ相伝
1496   明応五 十月、蓮如石山坊舎建設着工
1497   明応六 光善寺光淳没、実順第三代を継承 ○蓮如、八男蓮芸(教行寺)に相伝
  十一月、石山坊舎完成
1499   明応八 二月二十日、蓮如石山より山科へ入る 御影堂に参詣、数万の門徒とともに
  別れを惜しむ 三月二十五日蓮如上人遷化
  ― 中興の祖蓮如上人没後の新しい歴史始まる ―
1532   天文元 日蓮衆徒、近江六角定頼ら山科本願寺を焼く
1533   天文二 大坂石山坊舎を本願寺とす
1534   天文三 光善寺火災に罹り消失す 摂津国島下郡鳥飼や河内茨田郡大場に移転
1536   天文五 ○光善寺三世実順、蓮淳師の証如上人への返伝に相伴す ○蓮淳師、本願寺十世証如へ返伝す
1549   天文十八 光善寺三世実順没、実玄四世を継承
1560   永禄三 ○順興寺実従より十一世顕如へ返伝
1569   永禄十二 本願寺門跡寺院となる
1570   元喜元 光善寺実玄没、顕証五世を継承 石山合戦始まる 本願寺信長と戦う
1571   元喜二 信長比叡山焼き討ち
1573   天正元 信長、京都市を焼く
1580   天正八 本願寺十一世顕如、信長と和睦、石山本願寺焼ける
1582   天正十 本能寺の変、本願寺和歌山に移る
1584   天正十二 秀吉、石山本願寺跡に大坂城を建設
1586   天正十四 本願寺大坂天満へ
1591   天正十九 本願寺京都へ移る
1602   慶長七 家康、東本願寺用地京都六条に寄進
  ― 光善寺慶長年間に出口に帰る ―
1606   慶長十一 光善寺顕証没、准勝六世を継承
1608   慶長十三 ○本善寺証珍より西派本願寺十二世順如上人へ返伝 ○本善寺証珍より、真宗寺祐珍へ相伝
  光善寺准勝・准玄父子及び性応寺了尊ら相伴す
1620   元和六 教行寺教誓より十三世宣如(東)へ返伝
1637   寛永十四 光善寺本堂再建成る
1639   寛永十六 光善寺准勝没、准玄七世を継承 西本願寺学寮(龍谷大学の前身)を置く
1640   寛永十七 光善寺准玄学寮の初代能化職となり、学寮にて『和讃』を講ず
1641   寛永十八 准玄、学寮で『選択集』その他を講ず
1647   正保二 准玄、学寮を辞す
1648   慶安元 光善寺准玄没、良玄八世を継承
1662   寛文二 堺真宗寺、東派へ帰参す
1665   寛文五 東派、学寮を創設、(大谷大学の前身)
1668   寛文八 西派、末寺に相伝の秘書聖教猥りに見る可からずの掟を下す
1680   延宝八 光善寺良玄没、寂玄九世を継承
1686   貞享三 ○光善寺寂玄、西派十四世寂如上人へ返伝す 西派は寂如上人への返伝以降相伝断絶
1695   元禄八 寂玄、西派より住持職を奪われる 西派の相伝教学排除気風から、 西派学林の学僧らに相伝教学排除の
  光善寺、教学寺から相伝家衰微に向かう 気風強まる
1696   元禄九 光善寺、西派より東派へ転ず 以後の光善寺一玄師の登場で、東派相伝教学大いに興隆す
1706   宝永三 光善寺一玄『願以此功徳文意』校合
1718   享保三 光善寺一玄『還相回向聞書』校合
1722   享保七 光善寺一玄『観経玄義文』講述
1723   享保八 光善寺一玄『愚禿鈔科文』を書写
1725   享保十 光善寺一玄『観経講記』を著述す
1726   享保十一 寂玄没、一玄光善寺を十世を継承
1727   享保十二 光善寺一玄『正信偈』を開講す 慧光寺准五箇寺へ
1731   享保十六 一玄述真玄筆の『阿弥陀経講記』なる
1745   延享二 ○一玄、東本願寺十八世従如上人へ返伝、光善寺真玄・大信寺真智・ 真宗寺を相伝家とし准五箇寺に列す
  真宗寺真覚らこの返伝に相伴す
1746   延享三 一玄没、真玄光善寺十一世を継承
1747   延享四 ○光善寺真玄のもとで、真宗寺真昭、相伝の法流を聴聞す 真宗寺真覚『二門偈』『論注講記』を講ず
  真玄、『依典籍』を講ず
1748 寛延元 光善寺真玄、『大経上巻』を講義す 真玄、出口にて、『大径』講義、 真宗寺真覚、『論注』『選択集』を講義、
  『三心釈』を講義 真昭、『略本偈頌』を講義す
1749   寛延二 光善寺真玄、『論注』を講義す 真玄の命により坂東報恩寺真秀、 真覚、『論注』購読
  『往生成仏同体異名事』書写 真宗寺真覚出口光善寺にて『論注』講義 真宗寺真昭、『相承弁感』を著述
1750   寛延三 真玄、八尾にて『観経玄義分』を講ず 真昭聴聞 真覚、『選択集』『三心釈』を講ず
1751   宝暦元 光善寺真玄『観経序文義』を講ず
1752   宝暦二 光善寺真玄没、従玄十二世を継承。 真宗寺真覚、同寺真昭・教行寺真芸・
  ○光善寺従玄、真宗寺真覚より相伝 本宗寺真詮らに相伝
1767   明和四 ― 東本願寺家臣上田織部等相伝関係書籍を焼く ―
1778   安永七 真宗寺真昭、十九世(東)乗如へ返伝
1790   寛政二 ○本宗寺真詮より、光善寺従玄へ相伝 ○本宗寺真詮より顕証寺遍尊・
  本泉寺遍俊へ相伝
1807   文化四 ○光善寺従玄より、本宗寺乗榿へ相伝
1813   文化十 ○本宗寺乗榿より、光善寺乗玄へ相伝
1814   文化十一 光善寺従玄没、乗玄十三世を継承
1836   天保七 光善寺乗玄没、達玄十四世を継承
1868   明治元 江戸幕府崩壊す 廃仏毀釈令がでる
1870   明治三 達玄隠居、厳玄光善寺十五世を継承
1871 明治四 光善寺達玄没
1899   明治三二 光善寺厳玄没、厳智十六世を継承
1931   昭和六 光善寺厳智没、演良十七世を継承
1976   昭和五一 光善寺彰智没、暢信光善寺十八世を継承
 
 
 
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