蓮如上人
 
 

 北陸吉崎での教化
 北陸を選ばれたのは、本願寺が三代覚如上人以来教化に努めて来た地域であったことや、その地域の異義を正す必要を考えられたからでした。
 吉崎(福井県)の地は、三方が潟に囲まれた風光明媚な所で、しかも水陸交通に便利な要衝の土地柄でした。
 世の中は応仁の乱がはじまって四年目でしたが、戦乱は全国に広がっていました。
 吉崎御坊が建立されると、参集する門徒たちの宿泊等を世話する「多屋」という施設がその周辺に出来て急速に発展してゆきました。
 上人はこの吉崎御坊を拠点として、足しげく北陸各地の教化に赴かれました。
 この吉崎時代の五年間に書かれた『御文』は七十八通にもおよび、上人の熱誠溢れるご教化のほどが偲ばれます。
 『正信偈』『三帖和讃』の開版がなされたのは文明五年(1473)のことですが、このことは真宗の教化発展に大変大きな力となりました。

 
 

 親鸞聖人の主著『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の「行の巻」から『正信念仏偈』(しょうしんねんぶつげ)を抜き出し、その読誦(どくじゅ)を真宗門徒の日常の勤行とされたのは、蓮如上人がはじめられたことでした。
 また六字の名号を中心とされたのも吉崎時代のことでした。それは「木像よりは絵像、絵像よりは名号」という親鸞聖人以来の名号本尊優位の伝統からでした。その名号本尊は「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)という十字が中心でしたが、 行き過ぎた門徒の中には他の諸仏諸菩薩像を破壊するなどの行為に走る者が出たりしました。そのことは天台から「無碍光流の邪義」(じゃぎ)との謗りを呼ぶ原因ともなり、果ては大谷本願寺が比叡山の僧兵によって攻撃破却されるまでに至ったのが、つい直前の堅田時代のことでした。 そのような背景があったこともあり、吉崎時代の上人は、名号を「六字の名号」に統一されたのでした。

 

 上人の教化によって、真宗の教えは遼原の火の勢いで広まり、まもなく吉崎に参集する門徒その数幾千万といわれるほどの爆発的な発展を遂げ、本願寺教団はわずかの間に日本最大の教団へと発展したのでした。このために吉崎御坊の地は、思いがけぬ一大宗教都市に変貌したのでした。
 そのような本願寺教団の急速な拡大発展から、在来の天台真言等の他宗や守護地頭(当時の地域支配管理者たち)と門徒らの軋轢が起こり、上人は幾たびも『掟の御文』を書いて門徒を戒められました。
 ところが、北陸加賀の地で守護職の富樫政親と弟幸千代との権力争いに、常髄の門弟の下間蓮崇が陰謀をもって介入したことから、門徒らが争乱に巻き込まれました。
 急遽救援に駆けつけられた長男順如師とともに、上人はついに蓮崇を破門して吉崎の地を退去されました。文明七年(1475)八月二十一日の夜のことで、上人六十一歳の時でした。

 
 
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